No Mind, Never Matter

仕事中の暇な時間に書きます。

先入観とか。

 

今日もやる事一瞬で終わりそうなので朝から書いている。

昨日ブログを始めてみて仕事中のイライラが結構減ったし。ネットサーフィンより精神的にいい気がする。

周りに人がいないともっと心置きなく文章を打てるんだけど。

 

SNSなど見ているとみんな忙しくて時間無い時間無いって感じだけど、自分は仕事中もプライベートも暇でこれでいいのか感がすごい。

多分転職したら仕事中こんなに暇になる事はない、というか人数がかなり少ない部署らしいので残業必至だろうし(しかも結構多め)忙しくなるんだろうとは思う。

忙しくなったらなったで嫌になるんだろうな。外出が多くても嫌になるし、なさ過ぎても嫌になる。

仕事だけじゃなくて、色々な物事において真に心地よいバランスってあるんだろうか。

 

私は今まで「今全部がうまくいってて全部に満足!」みたいになった事がない。

というか、「だいたい全部うまくいってない。」という風に感じている事が多い。

しかし最近そういう風に感じているのはネガティブ要素の方にフォーカスしすぎているからではないか?と思うようになった。

よくよく考えてみるとだいたい1つの大きい悩みが生活全部に影響する、というか自分の生活全般の気分に影響している。

人はポジティブな事よりネガティブな事にフォーカスしやすいようにできているらしい。

生物として危機回避する為には正しい本能であるとはいえるが、これが幸福感を感じにくくしている様なのだ。

だから意識してポジティブにフォーカスする事が大切だと。

これはポジティブシンキングなのではないか?と思うが、ネガティブな事を無理やりポジティブに変換するのではなく、ネガティブな事を考えているなーと気づく事が大事なのだ。つまりネガティブな想起に没入してしまって感情的になっている自分を一歩引いて眺めるという事だ。

これはやろうとすると結構難しい。

というかだいたいの時間において、何かに夢中になったり集中している時以外は人って思考の檻でぐるぐるしているだけなんだなと気づく。

だから、こういう視点を持とうとすることだけでもかなり進歩なんだと思う。大体の人はぐるぐるしたままで死んでいく。

 

自分の思考と実際の出来事を切り分けるのも難しい。

例えば私がこのブログを仕事中に書いていて、横の人がちらっと私の方を見たとする。

“ブログ書いてるの見られた!?”と私は思う。

その後何回かそういった気配を感じると、私は“絶対ブログ書いてるのバレたし、何してるんだコイツって思われた…。もうブログ書けない”と思う。

でも実際はその人は私なんか見ておらず、私の向こう側にある窓を“寒いから窓閉めてくんないかなー”と見ていたかもしれないし、“こいつまだこのキーボード使ってんのかよ。これ打つ時うるさいんだよね”とキーボードを見ただけかもしれない。

でも私は自分の思考によってその人の行動を断定し、行動にまでそれを影響させた。

もっというと別に横の人は上司でも何でもないし、バレてたとしても自分への影響度はかなり少ないレベルなのにだ。

しかも特に日本ではこういった非言語コミュニケーションを“空気読む”という言葉で推奨している節があるから、思考の中に閉じ込められて身動きできなくなっている人も多い気がする。

思い込みや先入観といったものが自分の人生や可能性を狭めていっているのだ。

年をとって思い込み等が増え、それを疑う事のできる”知恵“を身につけないと老害と呼ばれる事になる。

でも年をとっていろんな経験をしていくとそういったものを捨てる、疑うのが難しくなっていく。

自分は正しい人生を送ってきた、選択をしてきたと思いたいからだ。

だから最近は先人の知恵に学びすぎるのはどうなんだろうと思う。

もし私に子供ができたら、私の言う事をすべて正しいと思わないでほしいと伝えたい。

自分の考えや判断さえも疑ってほしいと。